中村屋の恩人だった乱歩。
【対談連載】波乃久里子さんと平井憲太郎さんが語る、十七代目中村勘三郎と乱歩の思い出 ②
2022/08/30
トピックス
OVERVIEW
学生時代から歌舞伎を好んだ乱歩は昭和初め、ひとりの役者の可憐な美しさに心を奪われた。三代目中村米吉——のちの十七代目中村勘三郎である。戦後になって念願の対面を果たし、乱歩は終生、勘三郎の芸と人柄を愛した。初めて顔を合わせた勘三郎の令嬢と江戸川乱歩の令孫が語る、稀代の歌舞伎役者と探偵小説作家の思い出。連載第2回(全3回)。
乱歩が流行らせた? 文壇バーになった「うさぎ」
波乃久里子さん
———お父様と乱歩について、印象に残る思い出はおありですか。
波乃 私が10歳のとき、父が大病を患って、1年近く慶應病院に入院してた時期がありましてね。
———1955年11月、歌舞伎座にご出演でした。当時半蔵門にお住まいでしたが、ちょうど麹町にご自宅を新築される建前の日に体調を崩された。
波乃 そうなんです。それで収入が途絶えてしまったのに、母は、私と二人の妹と、産まれてまもない弟(十八代目勘三郎)にいい着物を着せて……ガス栓を捻って死のうかと思いつめたそうです。役者だから、二間続きみたいない病室をとっちゃって、そこに1週間に一遍、借金とりが来たんですって。
平井 病院にまで押しかけてくるわけですね。
波乃 それで、母はどうせ死ぬなら何か商売しようと思い立ち、父がウイスキーのオールドパーをためていたものですから、借金をして銀座に四畳半くらいの土地を買って、オールドパーしか置かない「うさぎ」というバーを開いたんです。そのお店に乱歩先生がずいぶん通ってくださった。
平井 ああ、その話は祖母に聞きました。作家仲間とか、お客さんを連れてったんですね。
波乃 おかげで文壇のバーになって。乱歩先生が流行らせてくださったわけです。母は商魂たくましくて、最後は、新橋演舞場の前にあった日産ビルの地下に60坪のクラブをつくって、40人くらいホステスさんを使ってました。大変に繁盛して、笑いが止まらないほど儲かったって(笑)。それも全部、乱歩先生のおかげと母から聞いてます。
平井 僕は当時、小学生以下ですから、さすがに話を聞いてるだけで。祖母としても焼きもち半分なわけです、そういうとこは(笑)。
波乃 でも、奥様たちもお見えになられてた?
平井憲太郎さん
平井 けっこうみんな連れて行ってたようですね。
波乃 最初の店のあと、四畳半から少し大きくなって2階もある普通のバーで、バーテンさんも使ってたんですが、麹町の家を設計してくださった吉田五十八さんが、それを移築して応接間にしたんです。だから、家に入るとバーがあったんです。靴で入れるお家にして。父は堂々と靴のまま上がるのに、私たちは絶対にダメ。母が「みんな脱いで!」って言うの(笑)。父はアメリカナイズされてたから、先生の感化かもしれません。
平井 こういう洋室がつくりたくてしょうがなかったくらいですからね。
波乃 父もそう。だから、うちは畳の部屋がなかったんです。一部屋だけお稽古場があるくらいで。まず、チャップリンに憧れてました。先生と外国の映画の話ばかりしてたんじゃないかしら。ともかく外国が好き。
波乃 最初の店のあと、四畳半から少し大きくなって2階もある普通のバーで、バーテンさんも使ってたんですが、麹町の家を設計してくださった吉田五十八さんが、それを移築して応接間にしたんです。だから、家に入るとバーがあったんです。靴で入れるお家にして。父は堂々と靴のまま上がるのに、私たちは絶対にダメ。母が「みんな脱いで!」って言うの(笑)。父はアメリカナイズされてたから、先生の感化かもしれません。
平井 こういう洋室がつくりたくてしょうがなかったくらいですからね。
波乃 父もそう。だから、うちは畳の部屋がなかったんです。一部屋だけお稽古場があるくらいで。まず、チャップリンに憧れてました。先生と外国の映画の話ばかりしてたんじゃないかしら。ともかく外国が好き。
———吉田五十八さんが大いに張りきって、工期は遅れ、工費もかさんだとか。
波乃 イギリス風のすばらしい家でしたけど、住みにくくて(笑)。今の小日向に落ち着くまで、私が物心ついてから16回越しました。引っ越したその日に、家の者が学校に迎えに来て、「久里子さま、あの、家が変わりました」なんてこともありました(笑)。
平井 祖父も池袋に来るまで46回引っ越していますが、16回というのも多いですね。
波乃 方除けのための仮越しで、建てたのは3回くらいですけどね。魚屋さんの上にいたこともあって、そこで下の妹が亡くなったんです。(二代目中村)吉右衛門兄さんが「おじさん、こんな家に住んで……」って泣いてらして。でも、それも方除けのためで、何しろ父が信心深くて。先生は?
平井 祖父は全然ダメなんです。信仰には関心がなかった。
波乃 父はたいへんに神頼みしてました。まずはお不動様。(初代中村)吉右衛門のおじちゃまがそうだったみたいですね。で、(六代目尾上)菊五郎のおじいちゃまはまったく気にしない。「戒名なんてつけるな。あれは坊主が儲かるためのものなんだ。お経なんか誰でもいいからうまい役者呼んでこい」って(笑)。だから私もね、甥(六代目中村勘九郎)が映画(『禅 ZEN』)で道元禅師の役をやったので、「私が死んだら、あなたお願い」って言ってあるの。それで、従弟の(七代目)清元延寿太夫に『隅田川』を語ってもらうことになってます(笑)。
平井 観客が多くなって大変そうですね(笑)。
乱歩は芝居の見巧者だった
———憲太郎さんも、勘三郎さんのお芝居はご覧になって。
平井 もちろん。でも小学生でしたからねえ。
波乃 この頃はご覧にならないんですか、歌舞伎は。
平井 たまに行かしてもらってます。
波乃 私は癖のように毎月行ってますけど、どうしても父や(六代目中村)歌右衛門のおじちゃまを偲んでしまいます。「盲千人目明千人」って言いますでしょ。乱歩先生は「素人の私には発言権がないのだが」なんて前置きをされていますが、ものすごくいいことを書いてくださってますよ。
エッセイ「勘三郎に惚れた話」が収録された『わが夢と真実』
———乱歩の「勘三郎に惚れた話」というエッセイですね。
波乃 ええ。乱歩先生がおっしゃるには、父の舞台には余裕があって、六代目菊五郎の余裕によく似てる。それは長所なんだけど、自分が演技をしないで他の人がしゃべってるときに目が遊んで客席を見たりするから、そこは気にしたほうがいい、と。これはすごい指摘だと思いました。ほんとうに父って飽きちゃうんです。
平井 舞台の上でも、ですか?
波乃 ええ。私が観ても、3日か4日ですよ、すごいのは。くたびれちゃうんだって、最初からがんばると(笑)。だから「千穐楽近くに見ておくれよ」って言うんです。それを見てた弟が「それだけはいけない」って、いつでも全力投球してましたね。ともかく、いいお客様が来ないと……たとえば、乱歩先生がいると一生懸命にやる。母が行くとしゃんとする(笑)。
平井 奥様は怖い(笑)。
波乃 だから皆が嘘をついて、番頭さんなんかは「今日は奥様見えますよ」って(笑)。すると父は、またそれを探すの。そこにいるって、わかってからやるんです。それ以外もちょろちょろと「誰がいるかな」って見ちゃう(笑)。そういうのを、先生が「あれはいかん」って注意してくださった。
波乃 ほんとうの見巧者でいらっしゃいますね。今、乱歩先生みたいな方がいらしたら違うでしょうね。怖いですよ、そんなこと指摘されたら。「私は素人だけど」って、その意味が深くて怖いですよね。
———それだけ乱歩も見巧者というか。
波乃 ほんとうの見巧者でいらっしゃいますね。今、乱歩先生みたいな方がいらしたら違うでしょうね。怖いですよ、そんなこと指摘されたら。「私は素人だけど」って、その意味が深くて怖いですよね。
土蔵の2階にて
旧江戸川乱歩邸応接間/2022年6月30日(撮影:末永望夢)
聞き手・文:後藤隆基(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター助教)
波乃 久里子(なみの くりこ)
1945年神奈川県生まれ。劇団新派所属。父は十七代目中村勘三郎、母は六代目尾上菊五郎の長女久枝。弟は十八代目中村勘三郎。50年「十七世中村勘三郎襲名披露新春大歌舞伎」で初舞台。61年に『婦系図』の妙子役で劇団新派に参加し翌年入団。初代水谷八重子に師事。舞台のみならず映画、テレビといった幅広い活躍を続け、芸歴70年を超えても芝居に対する真摯な姿勢を持ち続けている。昨年主演した『太夫さん』で劇団新派が文化庁芸術祭賞大賞を受賞した。
平井 憲太郎(ひらい けんたろう)
1950年東京都豊島区生まれ。株式会社エリエイ代表取締役。日本鉄道模型の会理事長。としまユネスコ協会代表理事。公益財団法人としま未来文化財団評議員。幼時から鉄道、鉄道模型を趣味とし、立教高校在学中の『鉄道ジャーナル』編集アルバイトをきっかけに鉄道趣味書出版の世界に入り、68年友人と共に写真集『煙』を出版。立教大学卒業後、株式会社エリエイに鉄道出版部門を立ち上げ、74年より鉄道模型月刊誌『とれいん』を発刊。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合があります。
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