父は乱歩先生が大好きでした。

【対談連載】波乃久里子さんと平井憲太郎さんが語る、十七代目中村勘三郎と乱歩の思い出 ①

2022/08/08

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OVERVIEW

学生時代から歌舞伎を好んだ乱歩は昭和初め、ひとりの役者の可憐な美しさに心を奪われた。三代目中村米吉——のちの十七代目中村勘三郎である。戦後になって念願の対面を果たし、乱歩は終生、勘三郎の芸と人柄を愛した。初めて顔を合わせた勘三郎の令嬢と江戸川乱歩の令孫が語る、稀代の歌舞伎役者と探偵小説作家の思い出。連載第1回(全3回)。

勘三郎と乱歩の出会い

平井憲太郎さんと波乃久里子さん。応接間にて

———勘三郎さんが中村米吉を名のっていた頃、京都南座で「馬盥」(『時今也桔梗旗挙』)の桔梗をなさった。おそらく1925年2月の公演かと思われますが、それを観た若き日の乱歩が、その可憐さに夢中になったとエッセイ(「勘三郎に惚れた話」)に書いています。

波乃 当時は女形でしたから。父が16歳くらいかな。乱歩先生はおいくつでした?

平井 30歳にはなっていますね。歌舞伎に限らず、定期的に劇場には通ってたみたいですし、演劇や演芸が好きだったようです。

———1929年に四代目もしほ、1950年に十七代目勘三郎を襲名され、まさに勘三郎襲名の年、乱歩はあこがれの人と初対面を果たします。

平井 翻訳家の黒沼健夫人に連れられて、楽屋を訪ねたらしいですね。

波乃 黒沼のおばちゃま、なつかしい! 鎌倉の素敵な洋館にお住まいでね。両親が結婚したばかりの頃、鎌倉にあった(六代目尾上)菊五郎のおじいちゃまの家を借りて住んでたんですが、玄関先が黒沼邸の裏口。それで親しくさせていただいていたんです。黒沼のおじちゃまはずっと寝たまま過ごされてたので、菊五郎のおじいちゃまが「ほら、健さん。寝てないで起きろ!」と呼びに行ったり、(初代中村)吉右衛門のおじちゃまは「起きてないでお休みなさい」なんて言ったり、さぞご迷惑だったでしょうね(笑)。

平井 黒沼さんは『空の大怪獣 ラドン』(1956年公開)の原作者としても有名ですね。

波乃 おじちゃま、寝たままどこにも行かないで、地図を見てるだけで『ラドン』をお書きになったのよ。すごいですよね。

———初顔合わせのその晩、二人はたちまち意気投合。以来、乱歩はずっと勘三郎さんを贔屓にされていました。

平井 後援会をやってたことは身にしみてわかってます。僕と祖父と祖母が一緒にお出かけするのは、だいたい歌舞伎座か新橋演舞場でしたから。

波乃 お金かかりますよねえ。うちの父のことを贔屓にしてる芸者衆なんて、芝居を観に行くときは、その日に使う身銭がないから、お風呂に5日行かないで湯銭貯めたんだって言ってましたよ(笑)。

平井 僕はお金のことはわかりませんけど(笑)。そういうときは、作家仲間が山ほどついて行きましたから。

波乃 そうでしょう。昔はゆったりしてましたね。お金がなくてもあるように見せて、子分連れて歩いて(笑)。借金に追われてたら世話ありませんけど。役者もそう。だから舞台に上がっちゃったほうがいいんです。

平井 舞台に上がってれば、借金取りに囲まれなくていい(笑)。

波乃 松竹の永山(武臣)会長もそうだったみたいですよ。お囃子かなんかの部屋に「頼むから隠してくれ」って(笑)。

平井 借金を踏み倒しても、笑って済まされた時代ですからね。

波乃 新国劇の島田正吾先生から聞いたお話ですが、『国定忠治』の「赤城の山も今宵限り」って台詞があるでしょ。あんまり赤字続きだったもので、「赤字の山も今宵限り」なんて言っちゃったって(笑)。みんな苦労したけど、それも笑い話になる。最後には裕福になるから。結局、本物だから残るんですよね


「モグラのおじさん」の思い出


———久里子さんは、乱歩と直接会われたときのご記憶はおありですか。

波乃 私はね、ほんとうに失礼なんですが、「モグラのおじさんみたい」って(笑)。

平井 そんなところありますね(笑)。いつ頃ですか。

写真上:左から乱歩、波野久枝(勘三郎夫人)、十七代目中村勘三郎、波野久里子、逢初夢子、黒沼夫人(『わが夢と真実』より)。写真下:乱歩夫妻、勘三郎夫妻、黒沼夫妻が寄せ書きをした色紙(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター蔵)

波乃 この写真のとき(1951年2月)だと思います。細かくは覚えてないんですが、父がよく乱歩先生の話をしてましたから、「あ、あのモグラのおじさんの話だ」ってつながるわけです。子供心に。先生、パイプを吸ってらした?

平井 パイプは持ってました。吸ってたかもしれないですね。

波乃 その印象が強くて。外国の方かな、と思ったんだもの。ちょっと日本人離れしてらっしゃるでしょ。

平井 背が高かったですしね。

波乃 いま、天知茂さんの明智小五郎シリーズをテレビで再放送してますよね。よく拝見してますけど、全然古くない。ちゃんと「今」がある。乱歩先生、その当時としては、ちょっと早かったのかしら。

平井 かなり早かったでしょうね。サブカルという言葉がない頃のサブカルですから。

波乃 日本人が追いつかなかったのかな。

平井 ええ。ただ、戦争中に本が出てない時期が長かったので、読者のほうが飢餓状態だったらしくて。いわゆる仙花紙本なんか山ほど出てますね。もらい損なった分もずいぶんあると思うんですが、終戦直後にはお金はかなり入ったみたいです。それもあって、戦後は書く気を失っちゃったのかもしれません。

波乃 なるほど。新しく書かなくても、そこそこの収入があったから。

平井 まあ、いろんな人のお世話するのが愉しくてしょうがなかったみたいですね。

波乃 スポンサーみたいに。父もずいぶんお小遣いいただいたんじゃないかしら(笑)。

平井 銀座からスタートして、ぐるぐる回って最後にゴールデン街で飲んで帰ってくるなんてこともあったらしいですよ。

波乃 そんなにお飲みになったんですか(笑)。

平井 本人は飲まないんです。きわめて弱い。付き合ってるだけなんですよ。

波乃 父もご一緒してたんでしょうね。先生、うちの母——「あの美しい奥さん」に嫌われそうな悪友、なんて本に書かれてますけど(笑)。父は、ほんとうに「乱歩先生、乱歩先生」って話してましたから、すごく恩義に感じてたんだと思います。大好きでした。


役者も作家も愉しい文士劇


———この応接間を乱歩が増築したのは1957年。勘三郎さんもいらっしゃったのでしょうか。

平井 いやあ、どうでしょう。いらしたかもしれませんね。

波乃 ハイカラですてきなお部屋ですね。

平井 ここは初めて自分でつくった部屋なんです。本人もこだわりがあったみたいで。前の家は借家ですから、50代で買い取ってるんです。

波乃 大変なご苦労だったんですね。

平井 印税を前借りしたって話です(笑)。

波乃 こんなにすごい方でもお金がなかったんだから、私たちがないのは当たり前だわね(笑)。ほんとうに、いい役者、いい作家ってのは、お金がないですね。

平井 入ったとしても、それだけ使いますしね。

波乃 お茶屋さんを借りきって、半分宴会みたいに文士劇の稽古をなさったんでしょ?(笑)

平井 たくさん仲間がいましたし、文士劇は大好きでしたね。

———新橋演舞場で『鈴ヶ森』を上演したとき(1951年10月)は、二代目市川猿之助(のち初代猿翁)さんが正式な指導にあたっていますが、乱歩は個人的に勘三郎さんに稽古をつけてもらっていた、と。

波乃 (白井)権八が久保田(万太郎)先生って、どんな権八だったのかしら(笑)。乱歩先生の(幡随院)長兵衛はわかるのよ。でも先生、いい恰好なさってる。……これ、父が教えたんですね。

平井 姿は様になってますよね。

波乃 (『天衣紛上野初花』の)河内山だって、いい形してらっしゃるわねえ。今の役者よりよっぽどいいわ(笑)。すごい。文士劇でも本物ですね。

平井 お金かけてますから(笑)。

波乃 もともと持ってらっしゃる素養がおありになる。昔の文士劇はおもしろかった。私たちの代は、有吉(佐和子)先生と平岩(弓枝)先生の『修禅寺物語』(岡本綺堂作)でした。有吉先生が夜叉王の娘かつら、平岩先生は妹のかえで。父が教えたのかな。有吉先生はお上手でした。本格的でしたよ。

文士劇『鈴ヶ森』(新橋演舞場、1951年10月)。左から久保田万太郎の白井権八、乱歩の幡随院長兵衛(『探偵小説四十年』より)

文士劇『天衣紛上野初花』(三越劇場、1954年4月)で河内山宗俊に扮する乱歩(『わが夢と真実』より)

———有吉先生は書かれる作品も芸道物が多いですし。

波乃 だから、ご自分も役者になったような気分だったのかも。おもしろがってましたよ、父は。文士劇って愉しいんですよ。ほんとうのお座興。ひとつの道楽でしょう?

平井 道楽以外の何物でもないですよね。

波乃 そうそう。だから、道楽に付き合ってお小遣いもらえて、こんなに愉しいことないじゃない(笑)。

平井 作家のほうはストレス発散でしょう、あれは(笑)。

波乃 うまくなくたっていいんですもの。だいたい褒めてくれるんですから。

平井 失敗しても笑って済みますから。むしろ、へたなほうが受ける。

波乃 野次のほうが大きくて、せりふが聞こえなかったとか(笑)。そういう人間の機微を乱歩先生はわかってらしたのねえ。


旧江戸川乱歩邸応接間/2022年6月30日(撮影:末永望夢)
聞き手・文:後藤隆基(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター助教)


波乃 久里子(なみの くりこ)
1945年神奈川県生まれ。劇団新派所属。父は十七代目中村勘三郎、母は六代目尾上菊五郎の長女久枝。弟は十八代目中村勘三郎。50年「十七世中村勘三郎襲名披露新春大歌舞伎」で初舞台。61年に『婦系図』の妙子役で劇団新派に参加し翌年入団。初代水谷八重子に師事。舞台のみならず映画、テレビといった幅広い活躍を続け、芸歴70年を超えても芝居に対する真摯な姿勢を持ち続けている。昨年主演した『太夫さん』で劇団新派が文化庁芸術祭賞大賞を受賞した。
平井 憲太郎(ひらい けんたろう)
1950年東京都豊島区生まれ。株式会社エリエイ代表取締役。日本鉄道模型の会理事長。としまユネスコ協会代表理事。公益財団法人としま未来文化財団評議員。幼時から鉄道、鉄道模型を趣味とし、立教高校在学中の『鉄道ジャーナル』編集アルバイトをきっかけに鉄道趣味書出版の世界に入り、68年友人と共に写真集『煙』を出版。立教大学卒業後、株式会社エリエイに鉄道出版部門を立ち上げ、74年より鉄道模型月刊誌『とれいん』を発刊。

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