乱歩が撮影した『鏡獅子』と四代目中村雀右衛門の思い出

中村雀右衛門(歌舞伎俳優)

2023/09/06

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OVERVIEW

小学校から大学まで立教ご出身という、歌舞伎界では珍しい校友の五代目中村雀右衛門さん。今年、人間国宝で名女方だった亡父の四代目雀右衛門が江戸川乱歩と交流を持っていたことが、いくつかの資料から判明した。中には、七代目大谷友右衛門を名のっていた昭和30年代の姿を記録した貴重な16ミリフィルムも。若き日の先代の映像をご覧いただき、その印象や乱歩との交遊について、さらに立教時代の思い出についてお話を伺った。

小学校の制服に惹かれて選んだ立教

—— 雀右衛門さんは、小学校から大学まで立教に通われていました。1961(昭和36)年のご入学ですので、初舞台(1961年2月、歌舞伎座)の2か月後、立教に入られたことになります。

中村雀右衛門(以下略) 昨今のお子様たちは小さい時分から教育が行き届いて、目から鼻に抜けるようなしっかりした方が多いけれども、自分たちの時代——とくに僕はのんびりしておりましたので、ほわっとしている間に小学校に入り、ほわっとしている間に大谷廣松という名前を襲名したような……。いま思い返すとそんな気がします(笑)。

—— お父様のご著書を拝読すると「息子たちを役者にするつもりはなかった」と。「でも役者をやりたいようだ」とも書かれていらっしゃいます。

当時は実際に子役が必要なことも多かったですし、何せ僕の伯父たちが、十一代目市川團十郎、八代目松本幸四郎(初代白鸚)、二代目尾上松緑でしたから。

—— いわゆる高麗屋三兄弟。お母様が七代目松本幸四郎のご息女でいらっしゃった。

ええ。とくに松緑の伯父には、小さいときから子役としても可愛がってもらった記憶が多く残っています。

—— 歌舞伎俳優の方で立教ご出身というのは、ちょっと珍しいですね。

そうですねえ。兄(八代目大谷友右衛門)も高校まで立教なんです。父がどこかで、小学校のグレーの半ズボンにダブルの上着、赤いネクタイでキャップをかぶっている生徒さんの姿を見かけたそうで、それが大変かわいらしかったと。だから「自分の息子にはあれを着せたい」という願望で立教に入れさせていただいた、と聞いたことがあります。

—— あ、なるほど。小学校の制服から。

ええ。制服に惹かれたようです(笑)。昔は、松緑の伯父などは「役者なんてのは学校なんか必要ないんだ」というタイプの人でしたし、そういう方も多かった。でも、父は暁星で、学業は大切だと考えていたようですね。ただ、ちょうど僕の襲名と小学校に入るのが同じ時期でしたから、その後どうなるかはわからない、本人次第、という気持ちだったのではないかと思います。

映画スターから関西歌舞伎、ふたたび東京へ

—— 1955(昭和30)年から1960(昭和35)年頃まで、お父様は関西歌舞伎にいらっしゃいました。雀右衛門さんの大谷廣松ご襲名と小学校ご入学の前に、拠点を東京に戻されています。

父は六代目大谷友右衛門の子でしたので、もともとは東京なんです。1942(昭和17)年に戦争に行きまして、復員したのが1946(昭和21)年。それ以前は立役でずっと東京におりましたし、戦後帰ってまいりましても、母と結婚したことで、七代目松本幸四郎の舞台に多く出ていましたが、1949(昭和24)年に七代目幸四郎が身罷りまして。どうしようかというとき、歌舞伎役者が映画に出演する機会が増えていたこともあって、たまたま映画に出るようになったんですね。

—— 映画デビュー作の『佐々木小次郎』(東宝、1950年)に主演されて大ヒット。戦後は映画スターとして活躍されます。

当人は歌舞伎役者として歌舞伎をすることが本分だと思っていましたので、映画はいつか抜けたかったようです。ただ、昭和20年代になりますと、歌舞伎を上演している劇場も多くはありませんでしたし、それこそ(六代目中村)歌右衛門のおじ様や(七代目尾上)梅幸のおじ様、他にも多くの諸先輩方がいらっしゃいましたから、父の出る場所がなかったんですね。

—— そこで関西に活動の拠点を移された。

ええ。(三代目)市川壽海のおじ様が、関西歌舞伎にお声がけくださって、関西でお芝居をメインにさせていただくようになりました。ただ、しだいに関西歌舞伎の状況も変わってまいりまして、本来の東京の舞台に出られるならそうさせていただきたいということで、東京に戻ってきた。それが、僕が小学校に入る前かと思います。

四代目雀右衛門と乱歩の出会い

—— そんな時代の真っ只中に、お父様と乱歩が出会っていました。

そうなんですね。驚きました。

—— 二人の初対面と思われる日に、友右衛門時代のお父様から乱歩に宛てた色紙が2枚残っておりまして、それぞれに「白きコスモス 白日光を こぼしけり」と「涼しさに 目をほそめたり 三日の月」と俳句が書かれています。

※1 大谷友右衛門時代、乱歩に贈られた色紙(立教大学大衆文化研究センター寄託資料)

※2 大谷友右衛門時代、乱歩に贈られた色紙(立教大学大衆文化研究センター寄託資料)

ああ、父の字ですねえ。

—— 裏面に乱歩自筆のメモで「昭和三十一年九月十日夜/池ノ端「はやし」にて/大谷友右ヱ門と初対面の折」とあります。1枚は9月10日、もう1枚は11日と日付が異なっているのですが、1956年9月に池之端の「はやし」という待合茶屋で出会っている。よく乱歩が使っていた店で、十七代目中村勘三郎に文士劇の稽古をつけてもらったり、それを口実に宴席をひらいたり。

ようするに、夜をまたいで飲んだってことですね(笑)。

—— (笑)。若き日のお父さまの筆跡、美しく流麗でいらっしゃいますね。

これは友右衛門の頃ですが、雀右衛門になってもこういう筆の運びで、どちらかといえば女性の手に近いのは、昔から変わってないですね。書の手ほどきを受けた先生が女性だったと聞いていますので、女方と意識して、そうしたのかもしれません。色紙をわざわざ2枚も書いておりますから、乱歩先生とのご縁を非常に大切に思っていたんでしょう。

—— 二人がなぜ、どのように出会ったのかは明らかではないのですが、乱歩が撮影していた16ミリフィルムに、お父様が『春興鏡獅子』を勤められた際の楽屋でのご様子と舞台の映像がありました。そのフィルムが収められた缶に、乱歩自身が「昭31年・秋」とメモしていて、ちょうど1956年9月に、東京の明治座でお父様が『鏡獅子』を勤めていらっしゃいますので「はやし」での初対面と時期が重なります。

おそらくそうだと思います。そのときの一座がどなただったのかもポイントかもしれません。というのは、興行主から紹介していただくこともあると思いますが、一座の中からご縁ができて、ということもありますから。

—— 1956年9月の明治座は関西歌舞伎で、市川壽海はじめ、尾上菊次郎、嵐吉三郎などの一座。その中でお父様の『鏡獅子』がかかっています。

それは完全に関西歌舞伎ですね。壽海さんの相手役というと、女方としては父だと思いますので。乱歩先生が、壽海さんと父を見ようと思っていらっしゃったのかもしれないですね。父もそこでご縁をいただいたのかな。

若き日の動く父、カラー映像だからわかること

楽屋で『鏡獅子』の仕度をしている大谷友右衛門。江戸川乱歩撮影(立教大学大衆文化研究センター蔵)

—— 昭和30年代のお父様の動く様子を、カラーで見られるのも珍しいのではないでしょうか。

非常に珍しいです。色目も、父がいろいろなときに言ってくれていた色目と同じように出ていて、もっと違う色かと思ったらそうじゃないので安心しました。それもカラーの映像が残っているからこそわかることですね。
—— 『鏡獅子』の楽屋や舞台での映像をみますと、二人はずいぶん近しい関係だったのでしょうか。すでに親交を深めていた十七代目勘三郎の、同じように楽屋と舞台を写した映像(歌舞伎座、1956年7月)も残っています。

乱歩先生が写真や映像がお好きだったということが、基本的におありになったでしょうね。もうひとつは、当時松竹としても、文化人の方には丁寧な対応をしていたことが類推できますので、会社や制作側も歓迎したでしょうし、壽海さんや一座の方たちも「どうぞ、どうぞ」という流れだったのかなとは思います。昭和初めから昭和30年頃までの楽屋は、女性が入るのは非常に大変だったのですが、お客様は入りやすかったのかもしれません。

—— 舞台の映像もありますが、客席からカメラを向けるということは当時……。

昔はできたんですよ。今は著作権や肖像権など、いろいろなことがあっていけないんですけれども。たとえば、父のところによくいらしていたお相撲さんの方はカメラがお好きで、よく客席で写真を撮ってくれていました。ただ、今みたいにオートフォーカスではないので、非常にぼけた写真ではあったんですけど(笑)。

—— 舞台上で動いている役者を撮るのは難しい。

ええ。今はデジタルの時代ですから少々暗くても大丈夫ですが、昔のフィルムは暗いと絶対に写らないんです。乱歩先生は、必然的にそんな環境の中で、しかも16ミリフィルムで撮ってくださっていた。ですので、カラーでこれだけきれいに撮れているということは、逆に「撮りますよ」という準備があったのではないでしょうか。

—— 照明もちゃんと当てていないときれいに写らないのではないかと。

ですから、ずいぶん強く照明を当てていますよ。これだけ白粉が白く見えて、しかもカラーで色が残っているのは相当明るくしている証拠だと思います。

—— 舞台のほうも近いところから撮っています。

望遠ではないですよね。望遠だとオートフォーカスじゃないから、どんどん被写界深度が浅くなってしまうので、後ろと前に「ぼけ」が発生すると思います。ですが、この映像は、後ろの背景と映っている人間とがそんなにぼけてない。ということは、それだけ広角のレンズを使っていたんじゃないかな。ただ、当時の広角ですから、近いところ。ほとんど花道の前のところで撮ってらっしゃったんでしょうね。劇場側にも前もって許可をとっていたんじゃないかと思います。
—— 9月の明治座か、あるいはその翌月に大阪歌舞伎座でも『鏡獅子』をなさっていますので、大阪で撮影した可能性も……。

可能性としてはありますね。映像に胡蝶が出ているとヒントになるんですが、胡蝶も役者がする場合と、そうじゃない場合もありますから、一概にはなんとも。

—— 明治座の舞台の前後に知り合って初対面をしたのか、東京で出会ったあとに大阪まで撮影に行ったのか。

厳密にわかるとおもしろいですね。いずれにしましても、この時期に父が乱歩先生と知遇を得たのは間違いないですし、非常にありがたいことだったと思います。

立教で学んだ生きる姿勢

—— 最後に、立教時代の思い出を伺えますか。

池袋駅の西口を降りると、戦後すぐのドヤ街のようなヤミ市がありました。そのあとに無理やり建てたような建物がずっと並んでるところを通って、二叉交番までやっとたどり着く。そこから小学校が一番遠くにあるので、結構距離があって大変でした。自分が小学校1年のときはまだ木造で、2年生から鉄筋コンクリートに変わりましたんですけども、最初の頃は給食室みたいなものも廊下から見えた記憶がありますね。それと、変な話ですが、駅から遠いのでお手洗いが……(笑)。我慢して小走りに小学校に行ったことはよく憶えています(笑)。

—— ヤミ市のなごりのような場所を、小学校1年生から通われていたわけですが、当時怖さなどはありましたか。

昭和のバラックというか、長屋の商店街みたいなものが続いてましたが、そんなに怖さを感じたことはなかったですね。帰りは駅まで友だちと一緒に楽しく歩いていました。途中に蛇屋とか床屋とか、いろんなお店があった記憶はあります。

—— 蛇屋の話は、当時をご存じのいろいろな方から聞きますね。

僕も、蛇の何を売ってるのかなと思ってたんです。でも、水槽のような丸い容器に入っていたり、マムシ酒みたいなのもありました。結局、滋養強壮のようなものだったんじゃないでしょうか。壺の中でヒルも売ってたんです。ヒルなんて使い物になるのかなと思ってたら、肩こりのときに悪い血を吸わせるんですって。ペット屋じゃないことは間違いない(笑)。

—— 大学は社会学部でいらっしゃいました。乱歩のご子息である平井隆太郎先生が社会学部の教員でしたので、授業に出られていたのでは……などと思ったのですが。

それが、自分も大学生くらいになりますと、どうしても舞台に出なければ仕方がないことが増えてきて、なかなか授業を受けることができなかったんです。ただ、社会学部に入って、いろいろな授業を受けられたのはよかったなと思います。

—— 立教で学ばれて、どんなことが印象に残っておられますか。

小学校から中学校、高校、大学を通して、学問はもちろんですが、人に対する接し方——ジェントルというか、品よく優しく寛容に、ということは一貫して学ばせてもらった気はします。生きる姿勢の大切さ。キリスト教に根ざしたものかもしれませんが、それだけじゃなく、やはり校風なんじゃないでしょうか。小学校のころに「君たちはPTA受けがいいね」なんて言われたことがあったんですけど(笑)。言われてみると、そうかもしれない。でも、それがいい方向に働けば、品格をちゃんと持って行動できる人間に育っていく。状況によって変化するのは当然ですけれども、物事を考える根本にそういう心を持っているかどうかは大きな違いかもしれませんね。

旧江戸川乱歩邸応接間/2023年5月24日
写真撮影:末永望夢(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター)
聞き手・文:後藤隆基(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター助教)

プロフィール

PROFILE

中村雀右衛門

1955年大阪生まれ。四代目中村雀右衛門の次男。61年2月歌舞伎座「一口剣」の村の子広松で大谷廣松を名のり初舞台。64年9月歌舞伎座「妹背山婦女庭訓」のおひろで七代目中村芝雀を襲名。81年重要無形文化財(総合認定)に認定され、伝統歌舞伎保存会会員となる。2016年3月歌舞伎座で五代目中村雀右衛門を襲名。08年に松尾芸能賞優秀賞と日本芸術院賞、10年に紫綬褒章、17年に第25回読売演劇大賞優秀男優賞など受賞多数。

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