乱歩の小説の謎を追いかける旅
齋藤 雅文(劇団新派文芸部)
2023/04/11
トピックス
OVERVIEW
劇団新派文芸部に所属し、長年にわたって商業演劇を中心に劇作家、演出家として活躍されてきた齋藤雅文さん。劇団新派が『黒蜥蜴』(2016年6月、三越劇場)を上演した際に脚色と演出を担当し、歌舞伎界から移籍した喜多村緑郎(前名・市川月乃助)の明智小五郎、河合雪之丞(前名・市川春猿)の黒蜥蜴というコンビで話題を呼んだ。役者の魅力を引き出しながら、乱歩を演劇にする方法についてお話を伺った。
日本文芸の伝統的作法を受け継いできた
——— 『黒蜥蜴』は、乱歩の小説よりも三島由紀夫が脚色した戯曲(1962年初演)のほうが有名かもしれません。齋藤さんは新派版に先行して、明治座創業140周年記念公演『黒蜥蜴』(西川信廣演出、2012年6月)の脚本を書かれています。黒蜥蜴を演じた浅野ゆう子さんの魅力が発揮された美しい舞台でしたが、これが新派版の下敷きになったのでしょうか。
齋藤雅文(以下略) そうですね。まず、僕自身の『黒蜥蜴』との関わりからお話ししますと、僕は乱歩の小説を読む前に、いきなり三島さんの戯曲を上演する現場に携わってしまったんです。坂東玉三郎さんが初めて黒蜥蜴を勤められて、明智小五郎は北大路欣也さんという華やかな組み合わせでした。
——— 1984年11月の新橋演舞場。演出が栗山昌良さん。
ええ。そのとき、僕の師匠である栗山先生が「原作の通天閣のほうがおもしろいんだけどな」って繰り返しおっしゃっていたんです。三島さんは、作品の舞台を戦前の大阪から戦後の東京に、通天閣を東京タワーに置き換えましたが、通天閣の下、戦前の猥雑な空気の中で展開するほうがいいかもしれないと思って、明治座のために自分が脚色することになったときに改めて原作を読み直したんですね。そうしたら、得体の知れないおもしろさがあった。明確な答えを出しきってない、見物に委ねている楽しさ。想像力をたくましくするロマンティシズム。だから、僕がつくってきた『黒蜥蜴』は、小説の中で謎だったことを追いかける旅だったような気がします。
——— 具体的には、どのような「謎」ですか。
小説でも三島版でも、黒蜥蜴はあくまで「黒蜥蜴」ですよね。あとは「マダム」と呼ばれるくらいで、本名はわからない。そこに迫ってみた。明智が「教えてもらいたいことがあります」と言って、黒蜥蜴が「今の私に、出来ること?」と応じると、明智は「お呼びしたいのです。あなたの本当のお名を」と返す。「それはねぇ……」というところで芝居が切れるので、結局答えは出ないんですが。
——— 原作にも三島版にも書かれていない、黒蜥蜴の名前。
美を追い求めて、盗賊になったこの女性は、どんな環境、どんな時代背景で生まれ育ったのかと考えていたら、それをドラマにしたくなった。その謎解きをしてきたんです。もちろん正しい答えなんてないけれども、僕なりの答えは出した。
——— 黒蜥蜴の「過去」について言及するという点ですね。
ええ。最後に黒蜥蜴の「過去」を出すことは、賛否両論でした。そこまでやる必要があるのかという方もいたし、意外で楽しかったという方もいたし。ただ、先行作品の疑問を探っていくうちにうまれたのが、あの物語なんです。
——— 三島版の上演に携わってこられた経験も、そこに重なっている。
当然、三島先生の戯曲がなければ、僕はあそこにはたどり着けなかった。それは横に連鎖しているのではなく、上へ上へと重なっていく感覚ですね。乱歩の『黒蜥蜴』という本歌に対して、三島さんは非常に純度の高い作品をつくった。そのために非常に抽象的な世界に入ったんですが、僕はそれを借りながら、もう一度世俗に戻したかった。僕の作劇方法じたいが、江戸歌舞伎以来の綯い交ぜや和歌の本歌取りといった脈絡の中にあるんです。大まかに総括すると、日本の文芸史の伝統的作法を受け継いでいる気がします。でも、それは勉強しようと思って「学んだ」のではなく、長年商業演劇をつくるなかで、自然に教わってきたことですね。いま思えば、ですが。
新派でつくる新しい『黒蜥蜴』
——— 新派で『黒蜥蜴』をつくられる前提として、喜多村緑郎さんと河合雪之丞さんが、歌舞伎から劇団新派に入られたことが必要かつ重要な条件だったと思います。
ええ。彼らがいなかったら生まれませんでした。
——— どのような流れで企画が立ち上がったのでしょうか。
いくつか要因はあります。玉三郎さんの『黒蜥蜴』初演から関わってきたことも、僕に声がかかった理由のひとつだし、明治座に書いたものをアレンジして雪之丞さんでやれないか、と。そういう瀬踏みの上で成り立っていたんです。僕自身もやってみたかったので、ちょうどいい巡り合わせだったと思います。
——— 新派版は緑郎さんと雪之丞さんへの当て書きですね。
もちろんそうです。三島版は、やっぱり三島さんの世界なんですよ。乱歩の本歌を取ってはいるけど、三島さんが本歌に乗り替わっちゃうくらい強くて、三島由紀夫の世界観で埋め尽くされている。だから、相当手強いですね。僕は玉三郎さんの『黒蜥蜴』の現場にずっとついていたので、他の方はイメージできない。あとは、美輪明宏さんくらいじゃないかな。男でも女でもどちらでもいいような非常に抽象化されたキャラクターとして描かれているので。新派でやったときは、それを僕がまた乱歩側に引き戻したという感じでした。雪之丞さんの場合、玉三郎さんや美輪さんのような腕力とは違うかたちで、彼の魅力をより多く掘り出せるようにと考えていましたね。
——— 緑郎さんと雪之丞さんという拮抗する役者が揃って、黒蜥蜴と明智を等質に描くことにもつながった。
明治座では、浅野ゆう子さんのイメージがどうしても強くて。黒蜥蜴は基本的に黒い衣裳だから、スチール撮りのためだけにハリーウィンストンで本物のジュエリーを借りたんです。そうしたら、浅野さんがきれいでかっこいいんですよ。だから「女優でもできるかな」と思って、浅野さんに寄りかかって書いたんです。新派では、そこを修正しました。黒蜥蜴と明智が対等になるように。基本的なプロットはほとんど同じです。
——— 明智についてはいかがでしたか。
個人的な印象ですが、映像でも舞台でも、あまりおもしろい明智小五郎に出会ったことがなくて。小説に出てくる明智ってしょっちゅう変装するでしょう。当時の自分のメモに「『伊達の十役』のようにやれたらいい」みたいなことが書いてあったんです。めまぐるしく早替わりをしていくような歌舞伎的手法がふさわしいと思って、緑郎さんならそういう技術を身につけているし、できるだろうと。しかも彼は細身で背が高いし、スーツ姿も似合う。それでいながら通天閣下では、あえて着流しにして。歌舞伎の影響は大きいですね。非常に意識しました。
——— 黒蜥蜴と明智の関係では、三島が戯曲化するときにも焦点をあてた二人の恋のありかたが注目されますが、それを象徴するのが、二人のキスシーン。原作では幕切れにあった場面を、齋藤さんは劇の中盤に移されています。
三島版の場合、恋はお互いの中で成就してるんです。でも、理念だけではもったいないので、具体的に絵として見たかった。ただし、歌舞伎もそうですが、男優と女形のキスシーンって出さないですよね。ちょっと際物めいたぎりぎりの、緑郎さんと雪之丞さんがどこまでいけるかを稽古場で瀬踏みしながらやった覚えがあります。キスシーンといっても、正面から見て、二人が重なった、離れる。それくらいのかわいらしいやり方ですが、ちゃんと恋愛をさせたくなっちゃいましたね。そういう意味では、良くも悪くも等身大のキャラクターになった。
——— 三島版の圧倒的な美の世界にいる二人、ということとは違って。
そうですね。最後に二人は死別するわけですが、別れが最後に待っているときは、恋愛として高い状態というか、幸せな状態をつくらないといけない。位置エネルギーなんですけどね。なるべく持ち上げておいて、壊す。そこは定石どおりにいきたいと思いました。
『怪人二十面相~黒蜥蜴二の替わり~』
——— 2018年3月には、緑郎さんと雪之丞さんの『怪人二十面相~黒蜥蜴二の替わり~』という自主公演がありました。乱歩ゆかりの地である池袋のサンシャイン劇場。数日の短い期間でしたが、非常におもしろい舞台でした。
ひさしぶりに(台本を)読んだら、おもしろかった(笑)。
——— あれは緑郎さんの発信だったと思いますが。
二人が劇団新派に入ったものの、本公演がなかったので、松竹から「自主公演みたいな形で何かやってみては」と。それで『黒蜥蜴』は手応えがあったから、『黒蜥蜴 エピソード1』とか『黒蜥蜴の秘密』とか『黒蜥蜴誕生秘話』とか(笑)、いろいろ考えたんですよ。明智が出て、黒蜥蜴らしき悪役が出るものということで、『怪人二十面相』なら懐が深いからOKだろう、と。怪人二十面相って誰かわからないし、「怪人二十面相=黒蜥蜴」でもいいじゃないか、みたいな話でスタートしたんです。でも、お客さんには「怪人二十面相=黒蜥蜴」と思わせておいて……違うんですよね、実は。
——— 『黒蜥蜴誕生秘話』のようなアイデアをいかしつつ、乱歩作品のさまざまなエッセンスがふんだんに散りばめられていました。
まさに本歌取りの世界。雪之丞さん演じる大河原美弥子という女性が、実は怪人二十面相だったわけですが、最後の最後、どうやって幕を切ろうかと思ったとき、彼女に誘拐されたご令嬢が、後に黒蜥蜴になるのではないか……と想像させる形にしたらおしゃれかなと、おもしろがって書きました。
——— 乱歩という世界をもとにしながら、その前後を膨らませていく方法。
完全なオリジナルをつくって、一から観客に情報を理解してもらうのは大変なことなんです。ある程度、お客さんが知っている情報の中に作品を放りこんでいくほうが、演劇としては入りやすい。歌舞伎でいう「世界定め」ですね。今度は乱歩の世界でいきましょうと決まったら、明智が出てこようが、黒蜥蜴が出てこようが、一寸法師が出てこようがかまわない。原作だけでなく、先行する三島戯曲のせりふも綯い交ぜにしながら、長唄にしようか洋楽にしようかとか考えて。そういう流れで生まれた芝居ですね。
乱歩は現代に通じる宝箱
——— 『黒蜥蜴』は「全美版」(2018年6月、三越劇場)として再演されました。
大きく違うのは刑事の役。初演は永島敏行さんで、非常にストレートな刑事にしたんですが、「全美版」では今井清隆さんが来てくれたので、これはもう歌っていただくしかないだろうと。
——— そうでないと、今井さんのファンが怒る(笑)。
いきなりバーでピアニストに弾かせて、一杯飲みながら歌っているシーンで入るとかね(笑)。でも、全体の骨格はあまり大きく変わってないと思います。無駄はだいぶそがれましたけどね。不要なせりふや動き、人物は淘汰されていく。
——— 「全美版」は『黒蜥蜴』の定本のようなものと考えてよいのでしょうか。
いえ。初演より「全美版」がよくて、決定稿というわけではないんです。初演には初演のよさがあって、手探りでつくっていたテンションの高さは再現できない。だから、もしまた『黒蜥蜴』をやることがあっても、初演とも「全美版」とも別のものになるはず。つくる側も観客も、時代や社会、演劇的条件とともに変わっていきますから。上演時の感覚には二度と戻れない。だから、同じ作品をやっても同じものにはならない。それでいいと思っています。
——— 改めて、乱歩を演劇にするということ、乱歩のおもしろさについて伺えますか。
やっぱり人間がおもしろいですね。キャラクターは普遍的だと思う。どの時代に移し替えても、それぞれの切り口があるだろうし、人間の本質を、娯楽として非常におもしろく描いていますよね。一歩間違えると、どろどろした嫌な部分とか、見たくもないものになりかねない。でも、そこに共感さえしてしまうような捉え方。乱歩の人間を見る目のあたたかさというか、ヒューマニティが、人間の本質と相まって、娯楽として成立している。『黒蜥蜴』は100年近く前の小説ですが、黒蜥蜴という女賊が「僕は」って言うでしょう。そういう男言葉を使うのは、昨今の女子中学生の感じにも近い。自分の性ではないところへポーンと行ってしまう心地よさ、囚われない自由が乱歩にはたくさん出てくる。演劇にもしやすいし、現代に通用する宝箱ですね。
旧江戸川乱歩邸応接間/2022年11月16日
写真撮影:末永望夢(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター)
聞き手・文:後藤隆基(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター助教)
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合があります。
※本インタビューのフルバージョンを、大衆文化研究センター発行の『大衆文化』第29号(2023年9月刊行予定)に掲載予定です。
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