RIKKYO×TOKYO
東京パラリンピック選手 澤田 優蘭さん
2022/02/10
立教卒業生のWork & Life
OVERVIEW
東京パラリンピックに出場し、新種目のユニバーサルリレーで見事、銅メダルを獲得した澤田優蘭さん(平26スポ)。走り幅跳びと100mのT12クラス(視覚障がい)でも日本記録を保持する澤田さんに、東京パラリンピックの感想や大学時代の思い出、今後の展望などを伺いました。
——メダル獲得、おめでとうございます。まずは東京パラリンピックの感想を聞かせてください。
ありがとうございます。チームのメンバーでメダルを目指してきたユニバーサルリレーは、日本記録で予選を通過してからのメダル獲得ということで、自分の中で特別な意味がありました。個人種目の走り幅跳びと100mは悔しさの残る大会でした。ただ、2021年に入ってからけがを繰り返し、パラリンピック出場自体も危うい時期があったことを考えると、走り幅跳びで5位入賞できたことは十分な結果だったとも思っています。
——大会期間中はどのように過ごしましたか。
試合日程がタイトで体のリカバリーに追われた日々でした。1日だけオフの日があり、選手村を散歩したり、ルームメイトと話をしたりしました。選手村の食事がものすごく美味しくて毎日楽しみにしていました(笑)
——自国開催で注目度の高かった大会でしたが、この盛り上がりについてどのように感じていましたか?
メダル獲得後、想像以上の反響で驚きました。「これを機にパラスポーツに興味を持った」という声も聞こえてきて、とても嬉しかったですね。この盛り上がりを止めてはいけないと競技者として感じました。
ありがとうございます。チームのメンバーでメダルを目指してきたユニバーサルリレーは、日本記録で予選を通過してからのメダル獲得ということで、自分の中で特別な意味がありました。個人種目の走り幅跳びと100mは悔しさの残る大会でした。ただ、2021年に入ってからけがを繰り返し、パラリンピック出場自体も危うい時期があったことを考えると、走り幅跳びで5位入賞できたことは十分な結果だったとも思っています。
——大会期間中はどのように過ごしましたか。
試合日程がタイトで体のリカバリーに追われた日々でした。1日だけオフの日があり、選手村を散歩したり、ルームメイトと話をしたりしました。選手村の食事がものすごく美味しくて毎日楽しみにしていました(笑)
——自国開催で注目度の高かった大会でしたが、この盛り上がりについてどのように感じていましたか?
メダル獲得後、想像以上の反響で驚きました。「これを機にパラスポーツに興味を持った」という声も聞こえてきて、とても嬉しかったですね。この盛り上がりを止めてはいけないと競技者として感じました。
インタビューに笑顔で答える澤田さん
——澤田さんはなぜ立教大学への進学を選んだのですか。
スポーツについて学べる大学を探したところ、立教のコミュニティ福祉学部の中にあるスポーツウエルネス学科を見つけました。私自身、勝つための競技スポーツよりも、年齢や障がいの有無を問わず多様な人が楽しめるスポーツのあり方に興味があったので、同学科は学びたいことにマッチしていて魅力に感じました。また、立教はさまざまな障がい者を受け入れていて、充実した支援体制に定評があったので迷いなく進学を決めました。
——大学時代はどのような学びに注力しましたか?
障がい者スポーツや子どもの心理など幅広く学びましたが、特に力を入れたのはスポーツ栄養学や運動生理学、解剖学といった分野です。自分の競技に関連する学びも多く、食事の摂り方、筋肉の付き方、身体の仕組みなどの基本的な知識を得たことで、トレーニングの効率が良くなりました。大学で学んだことは、いまアスリートとして活動するベースとなっています。
——競技面では大学時代、どのような活動を行っていましたか?
体育会陸上競技部に所属し、週5日の練習を行っていました。当時、陸上競技部では障がいのある選手を受け入れたことはなかったそうですが、入部する際に「自分にはどのような障がいがあって、どのような支援があれば活動できるか」といった話し合いの場を設けていただきました。「前例がないから」「危ないから」と断られるのではなく、前向きな姿勢で話を進めてくれたことがありがたかったですね。立教の陸上競技部は非常に先進的だったと感じます。部員のみんなも、ウォーミングアップの際に手助けしてくれたり、私の練習時にどのような点に気を付ければよいかを一緒に考えてくれたり。そんな仲間がいたからこそ4年間、陸上部でやり切れたと思いますし、みんなと共に活動できた経験は競技者として大きな財産になっています。
スポーツについて学べる大学を探したところ、立教のコミュニティ福祉学部の中にあるスポーツウエルネス学科を見つけました。私自身、勝つための競技スポーツよりも、年齢や障がいの有無を問わず多様な人が楽しめるスポーツのあり方に興味があったので、同学科は学びたいことにマッチしていて魅力に感じました。また、立教はさまざまな障がい者を受け入れていて、充実した支援体制に定評があったので迷いなく進学を決めました。
——大学時代はどのような学びに注力しましたか?
障がい者スポーツや子どもの心理など幅広く学びましたが、特に力を入れたのはスポーツ栄養学や運動生理学、解剖学といった分野です。自分の競技に関連する学びも多く、食事の摂り方、筋肉の付き方、身体の仕組みなどの基本的な知識を得たことで、トレーニングの効率が良くなりました。大学で学んだことは、いまアスリートとして活動するベースとなっています。
——競技面では大学時代、どのような活動を行っていましたか?
体育会陸上競技部に所属し、週5日の練習を行っていました。当時、陸上競技部では障がいのある選手を受け入れたことはなかったそうですが、入部する際に「自分にはどのような障がいがあって、どのような支援があれば活動できるか」といった話し合いの場を設けていただきました。「前例がないから」「危ないから」と断られるのではなく、前向きな姿勢で話を進めてくれたことがありがたかったですね。立教の陸上競技部は非常に先進的だったと感じます。部員のみんなも、ウォーミングアップの際に手助けしてくれたり、私の練習時にどのような点に気を付ければよいかを一緒に考えてくれたり。そんな仲間がいたからこそ4年間、陸上部でやり切れたと思いますし、みんなと共に活動できた経験は競技者として大きな財産になっています。
「スポーツウエルネス学科の沼澤秀雄教授(左)、安松幹展教授(右)と。学生時代に受けた安松先生の授業について『サッカーに詳しくないので、先生の授業は難しかった』と懐かしそうに話していました」
——大学時代の仲間とは今でも交流はありますか?
はい。競技の結果などをいつも気にかけてくれていて、連絡は取り合っています。入社した会社でも立教卒業生のLINEグループがあり、私の試合結果をアップしてくださるなど温かい応援をいただいています。「立教の輪」を卒業後にも実感することが多く、立教に入って良かったと改めて感じますね。
——大学卒業後に一旦競技を離れ、また復帰されました。当時の気持ちを聞かせてください。
視力の低下があり思うようなパフォーマンスができず、どのように解決していけばいいか悩んでいました。また、競技を続けると、いろいろな方にサポートしていただく必要があり、中途半端な気持ちではできないと思ったのです。社会人として生きていくのも重要なことだと考え、会社に入ってマーケティングの仕事を始めました。そうした折、2014年に行われたアジア競技大会がテレビで放送されていたのですが、私が十代の頃に切磋琢磨していた仲間が活躍している姿を見て「やはり私はこれがやりたい!」と気付かされました。
——復帰後、100mではガイドランナー(伴走者)である塩川竜平さんと共に走るようになりました。
一人ではレーンに沿って真っすぐ走るのが難しくタイムが思うように出ませんでした。塩川さんと一緒に走るようになってからスタートラインに立つ時に嫌な緊張感や恐怖心がなくなり、思い切りスタートを切ってゴールまで駆け抜けられる気持ち良さを感じました。
——視覚障がいがある中で競技を行う難しさを教えてください。
まず「見て覚える」ことができないため、コーチにすべて言語化してもらう、もしくは手取り足取りで教えてもらう必要があります。特に走り幅跳びは、走って、踏み切って、空中動作を行い、着地する、という複雑な動きがあり、説明するコーチにも難しさはあると思います。また、転倒などによるけがの危険もあるのですが、リスクを避けているだけだと上達できないので試行錯誤しながらいろいろな練習方法に挑戦しています。
——今後の目標について教えてください。
2024年のパリパラリンピックに自分の集大成として臨みたいと思っています。走り幅跳びでは目標である「6m以上跳んで金メダル」を実現させたいです。競技と並行してパラスポーツの普及活動にも努めたいですね。そのためにまずは伝えていく、パラスポーツの魅力を知ってもらうことが大切です。視覚障がい者のスポーツは健常者のサポーターと共に戦う場面が多く、パラリンピックではガイドランナーもメダルを受け取ることができます。一方でサポーターが見つからず競技ができない選手も多くいます。私たちが結果を出し、魅力を伝えることでサポーター人口の増加にも貢献できればと思っています。
はい。競技の結果などをいつも気にかけてくれていて、連絡は取り合っています。入社した会社でも立教卒業生のLINEグループがあり、私の試合結果をアップしてくださるなど温かい応援をいただいています。「立教の輪」を卒業後にも実感することが多く、立教に入って良かったと改めて感じますね。
——大学卒業後に一旦競技を離れ、また復帰されました。当時の気持ちを聞かせてください。
視力の低下があり思うようなパフォーマンスができず、どのように解決していけばいいか悩んでいました。また、競技を続けると、いろいろな方にサポートしていただく必要があり、中途半端な気持ちではできないと思ったのです。社会人として生きていくのも重要なことだと考え、会社に入ってマーケティングの仕事を始めました。そうした折、2014年に行われたアジア競技大会がテレビで放送されていたのですが、私が十代の頃に切磋琢磨していた仲間が活躍している姿を見て「やはり私はこれがやりたい!」と気付かされました。
——復帰後、100mではガイドランナー(伴走者)である塩川竜平さんと共に走るようになりました。
一人ではレーンに沿って真っすぐ走るのが難しくタイムが思うように出ませんでした。塩川さんと一緒に走るようになってからスタートラインに立つ時に嫌な緊張感や恐怖心がなくなり、思い切りスタートを切ってゴールまで駆け抜けられる気持ち良さを感じました。
——視覚障がいがある中で競技を行う難しさを教えてください。
まず「見て覚える」ことができないため、コーチにすべて言語化してもらう、もしくは手取り足取りで教えてもらう必要があります。特に走り幅跳びは、走って、踏み切って、空中動作を行い、着地する、という複雑な動きがあり、説明するコーチにも難しさはあると思います。また、転倒などによるけがの危険もあるのですが、リスクを避けているだけだと上達できないので試行錯誤しながらいろいろな練習方法に挑戦しています。
——今後の目標について教えてください。
2024年のパリパラリンピックに自分の集大成として臨みたいと思っています。走り幅跳びでは目標である「6m以上跳んで金メダル」を実現させたいです。競技と並行してパラスポーツの普及活動にも努めたいですね。そのためにまずは伝えていく、パラスポーツの魅力を知ってもらうことが大切です。視覚障がい者のスポーツは健常者のサポーターと共に戦う場面が多く、パラリンピックではガイドランナーもメダルを受け取ることができます。一方でサポーターが見つからず競技ができない選手も多くいます。私たちが結果を出し、魅力を伝えることでサポーター人口の増加にも貢献できればと思っています。
メダル獲得を祝し、西原廉太総長からお花を受け取る澤田さん
走り幅跳びの写真。東京大会では5位入賞という結果を残しました
※本記事は『立教大学校友会報457号(2022年2月発行)』をもとに再構成したものです。詳細はこちら
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合があります。
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